12/01/2010

地球人

トロントの日系人(ニューカマーの方)の方とお話をしていた時に、「死ぬならこの際どこでも良い。生まれた星が地球と思うから」という事言っていた。

コスモポリタンのトロントで長年生きていき、日本人として生まれた事を自分から切り離そうとしたり、日本人らしくありたいと願ったり、そういう行ったり来たりを繰り返しての気持ちだろう。

この頃、日系社会を覗いたり、勉強したりしていくうちに自分は日本人と思うときもあれば、日本人に生まれる事を選んだのは自分じゃない。と行ったり来たりしている状況だ。「日本人に生まれることを選んだの自分ではない」というのは、否定的に「日本人に生まれなければ良かった」とは一線を引いているつもりである。もちろん、母語は日本語として育ったので英語よりも日本語がしゃべれるわけだし、日本人の友達や日系人の友達のほうが同じような文化や習慣に「慣れている」「親しんでいる」ため「楽」である。しかし、それが私が日本人であるが故に日本のためになにが発起したり、一喜一憂したり、極端に言えば死んでしまっても良いと思うことや、行動に移すこととは別の話であるからだ。

いったどのくらいのカナダ人がそういった心理になるのか 知りたいものである。私はこの「●○国の国民」という枠にとらわれたまま生ていくのだろうか。いつ地球人になれるのだろうか。

10/06/2010

日系人なのか日本人なのかの問い。

カナダ生まれの日本の血を引く人。
が自分の「生まれ」をどう表現するか

  1. 日系カナダ人
  2. カナダ人だけど、親が日本人
  3. 普通にカナダ人
  4. 普通に日本人だけどカナダで生まれた。(生まれただけ)
 戦後にやってきた、日本移民&そのカナダ生まれの御子息はなかなか、「日系人」という言葉を使いたがらない気がする。「気がする」ということだけなので、証拠ではないが。
  •  他人種もしくは他民族とのミックス の場合→日本でいうとハーフというカテゴリーが作られる。そのため「日系」という枠にはあまりはいりたがらない、もしくは「日系」というカテゴリーの存在をあまり意識しない。
  • 戦後移民として日系コミュニティーとの関わりが薄い場合→移民として日系人とそだつのではなく、現地生まれのカナダ人として学校へ通い、家では両親から日本人として育てられるため日系意識は生まれない。
  • 戦後移民として完全に地域に同化している場合→ 日本との関わりも少なく、両親も日本語教育(継承語教育)よりも現地に馴染むために英語教育と現地教育のみに力を入れた場合は、カナダ人だけど親が日本人、普通にカナダ人とカナダ人意識の方が格段強い。

Japanese-Canadian と日系は訳としては正しいのだろうけど、「Nikkei」ってやっぱり含まれる意味は違うと思う。個人として日本人の血を受けているというよりも、もっと民族的とかコミュニティー的な意味あいが含まれてる気がする。だからか、カナダで生まれた日本人なら英語で話すときにCanadian born Japanese とかJapanese-Canadianとかいうけど、最初から「日系人」ですって言ってくる戦後世代の2世は少ない……。

戦後移民に見られる日系コミュニティーとしての関わりの薄さから、「日系:Nikkei」という言葉が自分の生活環境(範囲)にないから自分のことを「日系」とは意識しないのかもしれない。戦前からの移民は「日系」コミュニティーをベースに生きていたので、それが自然だったけどもっと個人主義的な日系社会になればなるほど、Nikkeiとしての意識は下がっていくのかも??



むしろ、気付いたのは私は日系カナダ人やコミュニティーを学術的な始点から「学んで」いるわけで、そういったカテゴライゼーションをしてしまっている。しかし、当事者の日系人たちにとっては継承語も→自分が喋る言語、日系人→まわりの親戚や友達、といったようにパーソナルな経験としてでしかない。


若い私がカテゴライズしている「日系人の彼ら」にとっては日系とか継承語とかはただ単にパーソナルな当たり前な状況であって、まったくもって意識するようなものではないということに気付けた。学術的に考えると「理論」や「通説」、「専門用語」などの仕切りができて、目線がまったく違ってしまうということだ。


私は始めてケイに会って話した日。

「ナニジン?」

「日本人だよー でもカナダで生まれ育った」

「え、でも日本人?国籍あるの?」

「昔はあったけど、今わからない…」

「えええ、じゃぁ…カナダ人なの?」

「カナダ人でもあるよ!国籍あるし!」



って2005年の5月の会話を思い出した。私は100%「理解不能」状態。今だから言えるけど、あっさり日系人って言ってくれればよかったのに、回りくどく出生について話してくれた彼は今では簡単に「日系二世です。」というけれど、高校2年生の若い彼には日系人と自分をラベリングはしなかったのだ。

今さっき思い出したこの会話だけど、この会話をキッカケに「カナダ生まれの日本人」に興味をもって、「日系カナダ人」の存在を意識し、リドレス運動の本から、戦時中の日系二世の出兵、強制移住、を読みあさることになる。結局、「カナダで生まれたカナダ人でもある日本人ってなんなわけ!?」と目線が同じだった時期を思い出す。初心に帰る事が必要である。


対人てきなフィールドワークでは、専門用語やカテゴリーなど学術てきな事に縛られてたら意外と何も見えてこなかったりするわけだ。 大切な事に気付いた。


 出会って彼と日系カナダ人を知る為に読んだ本達の一部。





10/05/2010

CBC -Canadian Born Chinese

ABC = American Born Chinese
CBC = Canadian Born Chinese

今日はCBC女の子2人と会話。
 
やっぱり日本人の移民(留学生)として一番話しやすいのは母語を共有する日本人、次に日本語を喋る日系人、日本語は喋らないけど近い文化を共有することが出来る日系人、東アジア系特に香港&台湾、それに続き、他のアジア系、だな…… と実感。もちろん白人の友達もいる。

今までは英語が壁なのだと思っていた。英語の壁が前ほどのように無く、むしろおしゃべりな自分に見えるのはやっぱり文化の壁ということと無意識にも「外国人(移民)」と見られることなのだろうか? ルームメイトは悪い人ではない、むしろオタワ出身だというので仲良くなれると思っていたが、あのぎこちない雰囲気が流れるのはいくらお互いオタワに住んでいて話す事が無いわけじゃないけれど、文化の壁だろうか。もう少し観察していきたい。


自分探しの移民達 カナダ・バンクーバー、さまよう日本の若者 Written by 加藤恵津子





2009年の夏に大阪のみんぱくへ行ったとき、この本を紹介してもらいました。丁度訪れた日の前日が、日本カナダ学会でまだまだ意識が低かった自分はせっかく誰でも参加できる日もあるのに参加せず…。プログラムを見ると、今更聞きたい内容(研究)が沢山あるなって思えて、行動力って大切だと今更気付かされます。

そして読もう読もうと思っていて、いつもアマゾンで注文し損なっていて読んでなかったこの本… カナダ研究の先生方から勧められる事が多く、カナダに来て必要性に気付き日本の両親がわざわざ送ってくれました。

ー感想ー

ワーキングホリデーやカレッジ、語学留学をベースに海外滞在(カナダ)を繰り替えす若者達。私も沢山見てきたし、出会ってきました。そして加藤さんと同じ ような疑問を抱いていたことも事実です。もちろん本人たちの意識の中にはあまりないだろうけど、移民のプッシュとプル要因の狭間で翻弄される日本人の若者たち。 日本国籍が保険的要素(インタビューから)を持っているからこそ、どちらの国にもゆっくりと「根」や「荷」をおろせないでいるのでしょう。発展途上国からの経済移民 や、難民はカナダでやっていく、「生きていく!」って腹をくくっているケースが多いですが、現代の日本人移民、(現代の移民は日系人と自称しない事が多い。) や移民を目指す若者の意識の違いをこの本を通して理解できます。移民メンタリティー的な所が政策や時代を通してまったく違うのが興味深い。そういった若者に押しかかる、二国間のプルファクターとプッシュファクターが「おしくらまんじゅう的」表現されていて、興味深いですが。また、日本を含むアジア系女性をターゲットに恋愛をする白人カナダ人男性を「ライスキング」と呼ぶ表現も初めて知りました。

自分自身、友達、今までであってきた留学生、ワーキングホリデーの人、結婚移民者など痛々しくか重なり身近なトピックであるこの「さまよう日本の若者」、研究対象のジェネレーションや背景は違いますが、日系カナダ人アイデンティティー研究に活かしていければと思います。

 この本は、今からカナダに飛び出す人や、カナダで行き詰まっている人が読むべきだと思いました。ある意味うつになるかもしれないですが、現実は見るべきです。(すでに搾取などの状況下で、うつ状態である人が読むと苦しい本かもしれんが)

カナダ式多文化主義 —失敗?成功?


 


カナダの多文化主義という実験は失敗か?

カナダの全国紙、Globe and mail で行われたウェブ投票の結果。
多くの人がこれは失敗だったと言っている。

これは一部の統計であるので、正確な数値とはいえないが(1人が何票も入れる可能性もあり得る)世論という現実なのかもしれない。多文化主義にシフトされて40年経つ今、多文化主義最考という動きの中で多文化主義は失敗、カナダの多文化主義は盲目的だという考え、多文化主義の終盤という考えが主流になりつつある。

ここで諦めてしまっては、カナダという国家がどうなっていくのか。寛容から生まれる「寛容」それこそがカナダの多文化主義だと思うのだが…、揺り戻し時期なのか世論

カナダ的価値観

カナダ文化

カナダ史(入植前後〜)

カナダ国民

この国自体

は全てCreation"創造"である事が前提にあるからこそ


私はこのカナダ式多文化主義はある意味成功だと思う。しかし、失敗だったという人はほとんどが3世代目以降のカナダ人が多い気がする(コメントや自己紹介によると)そして他民族系カナダ人との関わりが薄いのはその人達自身だったりもするの。カナダに居る全ての人は移民であるか、移民の末裔、どちらにしろどこからか渡ってきた人であるのに数世代すれば立派に「カナダ人」といっているではないか。これが同じように中国人やインド人にもおこると思ってないらしい。まさに自分に寄って証明されているではないかと私は思ってしまう。

確かに、多文化主義のバランスは語られるし、宗教の色濃いさに対しての難色…難民受け入れなどかなり問題として取り上げられているのでそういった世論になるのはしかたないかもしれない。

アジア系、ヨーロッパ系に関わらずカナダ人2世 からはカナダが彼ら彼女らに取って母国であり、国籍を持つ地であり、生まれ育った場所である。確かに民族的なコミュニティーを主体として行動するというか、アジア系カナダ人はアジア系カナダ人と遊んだりということはあるけれども、カナダを自分の母国もしくは故郷と思わない人は居ないと思う。(親の転勤でたまたまカナダで生まれて国籍取得しまた引っ越していく場合はまた移民とは別として考える。)居ないと思うのは自分の経験上そんな人に会った事ないという、パーソナルエクスペリエンスだが、仲良くなったらやんわりそういった話をすると自分の両親の出身国(以下祖国と呼ぶ)にもなんらかの思いや愛着はあるが、全くない人も居るし、愛着があったとしてもカナダ国籍を捨てて自分が祖国に舞い戻るほど愛着を持った人も見た事がない。

祖国の事を嫌う人は、土着の人間の中にも居るので、2世でカナダが嫌いというのは、「移民の子どもだからこの国を母国と思っていなから」とうことには直結できない。

 しかし、このイントーラレンス(非寛容さ)が、移民1世、2世の居心地を悪くさせる事によりもっと適応もしくは同化を遅らせる事で民族間の分裂にならないかが私は問題だと思う。プルファクターとしてのカナダに少なからず適応していくであろう移民を頭ごなしに否定することが、移民の中での「カナダ文化への抵抗要素 」にならないかということである。

この地で、「1人の人間」として文化、言語、血統、民族、スキンカラー、セクシャルオリエンテーションなど様々なレイヤーを持つ事を許すはずだったカナダの多文化主義はどこへ向かうのか。失敗だったと言い捨てられる物ではないはずなのに。

 しかし、誰がカナダ人を定義できるというのか。